Yasuhabitat

Love the Life You Live, Live the Life You Love | 歩みたい人生を歩むための挑戦記

国際共同制作

最近、学校を卒業後のことをよく考える。これからもドキュメンタリー制作に携わっていくために、どんなオプション、可能性があるのかを探っているんだけれど、その中で「国際共同制作」という言葉によく出くわす。

 

そしてこの言葉になぜか引っかかるのだ。

 

今の映画学校は半分がデンマーク人、もう半分が外国人という構成。つまり、ここで作られる作品は意図せずとも「国際共同制作」。

バックグラウンドが異なる人々と一つのものを作り上げる楽しみも困難もどちらも味わった上で、私は「同じ想いを持った人と一緒に映画を作る」というのを一つの軸にしたいと考えている。

 

だから、二国間の文化交流や記念作品などは例外として、最初から「国際共同制作」を前提として企画を考えるのは違和感が残るのだ。一番大切なものが置き去りになってしまうような気がして。

 

「国際〇〇」ってなんとなくキラキラとしたイメージがあると思う。それだけで、時代の最先端を行っているような感覚にもなると思う。なんか「イイことしてる」って思っちゃうと思う。実際、私も「国際教養学部」出身だし、「国際」と付いていることに安心していた時期もあった。

 

でも、Inter(〜の間)national(国)という構図って、文字通り「国」と「国」の間なんだなとも思う。移民について学んだ経験から、私は「国」という縛りから離れて「人」として生きていきたい(「日本人」としてではなく「日本で生まれ育った人」としていきていきたい)って思うし、一緒に作る人を国(国籍)で決めたくない。

共通する想いを軸に、お互いのバックグラウンドや強みを生かして「自分たちにしか撮れない作品」になればいいって思うし、「想い」があれば大抵のことはなんとかなるって思うから。

 

もちろん国際共同制作が盛んになってきている背景には、複数の国が共同で出資することで制作費を増やしたり、市場規模を大きくすることを狙っているという事情もあると思う。でも、これもやっぱり「うーん」って思ってしまう。

幸運なことに、今はクラウドファンディングやオンライン配信など、様々な資金調達や配給のオプションがある。国際共同制作も選択肢の一つではあると思うが、やっぱりお金を理由に「想い」を犠牲にすることのないように自分にしっかりと言い聞かせておこうと思った。「国際共同制作」は手段であって、映画を撮る目的ではないのだ、と。「想い」を犠牲にしそうになった時に、きちんとNOを言うために。